コラム

 2016年2月8日の当センター10周年記念式典での山口佐賀県知事の祝辞の中で、「九州シンクロトロン光研究センターは平成の反射炉である」との言葉が飛び出してきた。当センターにお世話になるまで佐賀県に縁のなかった筆者には、「反射炉」なるものが佐賀県に存在していたことが初耳であったばかりでなく、それがどのような炉なのかもはっきり認識できなかった。工学部冶金(やきん)学科の卒業生としては、少々慌てざるを得ない状況であった。山口知事の意図された反射炉の歴史的な意義については他の多くの方々の解説等に譲るとして、本コラムでは、反射炉を含む製鉄の歴史の技術的側面について調べた結果を記してみたいと思う。

 反射炉の目的は言うまでもなく、金属の「鉄」を得ることである。非常に乱暴な言い方をすれば、赤茶けた鉄さびを金属の鉄に変換するための道具である。製鉄法の原理は、一酸化炭素ガスが酸素を取り込んで二酸化炭素ガスになる力を利用して鉄の酸化物から酸素を取り除き金属鉄に変換することである。当然のことであるが、一酸化炭素で満たした容器に赤茶色の鉄さびを詰めただけでは金属の鉄はできない。そこには「高温」という非常に重要な要素が加わってくる。現代の製鉄法では、溶鉱炉(あるいは高炉)と呼ばれる巨大な煙突のような炉の下に石炭を蒸し焼きにして炭素成分を濃縮したコークスというものを詰め、その上に鉄の赤さびに相当する鉄鉱石を載せ、コークスを燃焼させることで金属の鉄を得ている。鉄は溶けて水のように溶鉱炉の下部に流れ落ち、溶鉱炉の下部の穴から溶けた状態で取り出すことができる。実は、この「溶ける」ことも鉄を得る上では非常に重要な要素なのである。鉄の原料である鉄鉱石には、鉄のさび以外に「石」の成分も含まれており(というよりも石の中に鉄のさびが含まれているといったほうが正確)、この石の成分を分離することも製鉄プロセスの重要な役割なのである。もし鉄が溶ける温度になれば、石も溶けて液体となり、比重の違いから溶けた鉄と溶けた石は水と油のように分離する。下の水だけ取り出せば容易に鉄のみを取り出すことができる。この面でも「高温」は非常に大事な要素なのである。

 反射炉の前の日本の製鉄技術は「たたら」と呼ばれるもので、れんがではなく土で作られた炉のようなものを用いる方法であったが、高温を得ることに最大の関心があったことは反射炉と同じである。両技術とも薪などを燃やして高温を得ており、その燃焼ガスには一酸化炭素はおのずと含まれてくる。「たたら」は「踏鞴」とも書かれ、歴史的にいろいろな型はあったようであるが、基本的に鞴(ふいご)を用いて高温を得るように工夫されている。

 たたらの時代における技術的な難点は温度以外にもうひとつ、その原料にあった。現代の製鉄では原料の鉄鉱石はほぼ100%輸入である。「鉄鉱石」と呼べるような鉄成分の豊富な原料が存在しないことは当時の日本でも同じであった。それを克服するものとして「鉄穴(かんな)流し」という技術があった。山の上で原料の砂鉄を採取し、水路を通してふもとの「たたら」までそれを流し落とす。「たたら」の前にため池を用意しておき、流れて粉砕された砂鉄をそこに溜めるが、とくに鉄成分の多い重い粉砕粉は池の底に溜まる。それを取りだして「たたら」に供する、そのような過程だったようである。 

 いずれにしても、この「たたら」で完全に溶けた状態の鉄を得ることはほとんど不可能だったようで、半溶融の状態の鉄をたたきのばして使える状態の金属鉄にしたようである。いわゆる日本刀の刀鍛冶の仕事に代表される「鉄を鍛える」作業が必須だったわけである。余談になるが、今われわれが博物館でお目にかかるような日本刀を作るためには、非常に良好な原料・材料に巡り合える幸運の要素も必要だったのではないかと想像する。日本刀が作れる程度の良好な材料は「玉鋼」と呼ばれている。

 反射炉が必死になって各地で開発された幕末において、もっとも必要とされた鉄製品は大砲である。これはもはや鉄を鍛えて日本刀を作るプロセスでは製造できない。「鋳造」すなわち砂で作った型に溶けた鉄を流し込む方法でなければ作れない、言い換えれば製鉄のプロセスに鉄を完全に溶かすだけの高温が必須の因子として要求されるようになったわけである。反射炉はその名の通り、熱を煉瓦で作った壁に反射させて原料部分に集中させている。原料を置く部分には傾斜がついており、原料が溶けると傾斜に沿って炉外に流れ落ちる構造になっている。佐賀城本丸歴史館内に断面模型の展示があるのでご参照いただきたい。                                                   
 やや専門に偏った記述になってしまうが、現代の製鉄法では先に述べた溶鉱炉から取り出された溶けた鉄がそのまま製品になるのではなく、「転炉」と呼ばれる炉に移されて、水と油のような溶けた鉄と溶けた石の状態を十分高温で保つ過程が必ず加わる。この過程により鉄中の不純物成分が溶けた石と同様に溶けた鉄から分離される現象が生じ不純物除去が可能となる。反射炉はこの役目も担っていたはずであるが、その機能が発揮されるためには炉に挿入する原料が現代の溶鉱炉から取り出された鉄に近い十分溶けた状態を経た鉄であることが必要だったはずである。反射炉が考えられた当初そこまでの考慮はなく、たたら製鉄法により得られた材料を原料とすることが考えられていたようであるが、原料に対する顧慮は徐々に進み、実際に操業するころには、半溶融の状況を「鉄を鍛える」技術で補った刀剣が原料として用いられたとのことである[*]。しかしながら出来上がった大砲を試射したときに砲身が破裂する事故が続発したようで[*]、簡単には思惑通りにいかなかったことが伺える。

  反射炉開発の事始めは、まずオランダから輸入された書物の翻訳から始めたとの記録があり、その翻訳にあたったのは全く専門の異なる蘭方医だったそうである[*]。結果として佐賀藩が作製した鉄製大砲の総数は失敗作も含めて138門にも上るとのこと[*]。平成の反射炉がたどる道程も同じような苦難の連続だとすれば、覚悟をしたほうが良いかもしれない。

[*] Wikipedia「築地反射炉(ついじはんしゃろ)」の項の記述を十分信頼に足る情報源と判断して参照させていただきました。
(「築地反射炉」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2015年11月28日 (土) 08:19 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

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